《兵士の物語》ノート 2011年作成
いまの幸福に むかしの幸福を 加えようとしてはいけない
いまの自分と むかしの自分に 同時になれるわけはない
すべてを手に入れる権利はないのだ
《兵士の物語》は、ロシアの民話を基にラミュが台本を書き、ストラヴィンスキーが音楽をつけた。副題として、「読まれ、演じられ、踊られる」という言葉が添えられている。
初演は1918年にスイスで行われた。
《兵士の物語》はストラヴィンスキーの転換点を示す作品である。第一次世界大戦直前の1913年、故郷のロシアを去り、フランスにいたストラヴィンスキーは、巨大なオーケストラを必要とする《春の祭典》で成功を収めていた。そして彼は現代的な芸術家のリーダーとして次に何をすればよいか考え、実験の時期に入っていた。彼は戦争の間に大きな変化を遂げて、過去の自分を捨てる決心をした。その結果生み出されたのが《兵士の物語》なのである。
彼はどのような変化をしたのか?
一つはロマン派のマーラーやヴァーグナーに代表される贅沢で極大主義的な傾向からの転換である。これは彼のような音楽家だけでなくヨーロッパ全体に起こった戦後の現実でもあった。100名近い大きなオーケストラを必要とする《春の祭典》から、7名の奏者しか必要としない《兵士の物語》へと変容したのだ。これは1912年のベルリン訪問も影響を与えているかも知れない。彼はそこでシェーンベルクの《月に憑かれたピエロ》の演奏を聴き、小型オーケストラ(二本の木管、二つの弦楽器、ピアノ)に感銘を受けている。
もう一つはポピュラー音楽やテクノロジーの助けをかりた映画やラジオ、そしてジャズからの影響である。第一次世界大戦中は中立国であるスイスに滞在していたストラヴィンスキーは、アメリカから持ち帰られたジャズバンドの録音と楽譜から影響を受けている。その影響は、楽器編成(兵士の物語の楽器編成は、当時のジャズバンドの標準的な編成に近い)やラグタイムなどの中に直接的に見られる。
今回は作曲者自身の編曲によるトリオ版の演奏である。以下に今回演奏されるトリオ版の曲目と実際の劇のあらすじを記しておく。
<登場人物>
兵士(ジョセフ)
悪魔
語り手
王女(劇ではセリフはない)
<作曲者によるトリオ版の構成>
Ⅰ 兵士の行進曲
Marche du Soldat
Ⅱ 小川のほとりのうた
Petit Airs au bord du Ruisseau
Ⅲ 小さなコンサート
Petit Concert
Ⅳ 3つの舞踏曲(タンゴ — ワルツ — ラグタイム)
Trois Danses (Tango – Valse – Ragtime)
Ⅴ 終曲:悪魔の踊り
Finale: Danse du Diable
《兵士の物語》エピソード
まれにゆめの中で音楽がでてくることがあるが、それを書きとめることができたのはたった1度きりだったんだ。それは「兵士の物語」を書いているときに起こった。そのときは音楽だけじゃなくて演奏している人までゆめに出て来たんだ。
若いジプシーの女が道ばたに座っていた。子どもをひざにのせて。女はヴァイオリンを聞かせていた。音楽を子どもは楽しそうに聞き、その小さな手で喝采をおくっていた。
ゆめの中で楽しそうに弾かれていたモチーフが、「兵士の物語」の中の「小さなコンサート」という曲に使われているんだ。
ロバート•クラフト著 「ストラヴィンスキーとの対話」より
<あらすじと音楽>
第1部
(音楽:「兵士の行進曲」)
兵士は2週間の休暇を利用して故郷に戻ろうと田舎道を急いでいた。小川のほとりで兵士はかばんから故郷の恋人の写真を取り出し眺めて休憩をしていた。ほどなくしてヴァイオリンを取り出しひきはじめた。
(音楽:「小川のほとりのうた」)
そこに虫取り網をもった小柄な老人の姿をした悪魔が登場する。悪魔は兵士にヴァイオリンを譲ってほしいというが、兵士は応じない。そこで悪魔は魔法の本を取り出してヴァイオリンと交換してほしいという。悪魔によると、その本は字が読めない人でも読めて、未来のことが書かれている、大金持ちになれる本だという。
兵士は本とヴァイオリンを交換して、悪魔に演奏の仕方を教えるために3日間という条件で悪魔の家に行く。
兵士は悪魔の家を出て故郷に戻るが、誰も彼のもとに近づこうとしない。母親さえも。彼は死んだことになっていた。悪魔の家での3日間はじつは3年間だったのだ。
兵士は故郷を去り、途方に暮れるが悪魔からもらった本のことをおもいだす。彼はその本を使っておもうままに金を作り出し、なんでもかんでも手に入れた。なんでも。
しかし彼のこころは満たされることはなかった。彼には恋人がいなかった。自分は億万長者だが死んだ人間も同然だとおもっていた。
そこに悪魔が現れてさまざまな商品を出して買ってくれと言ってきた。すべて断ったが、最後に出てきたヴァイオリンにこころを奪われる。悪魔からひったくってひき始めるが、全く音が出ない。やけになった兵士はヴァイオリンを壁に投げつける。そのあと悪魔の本をもばらばらに引き裂き、ちぎって捨ててしまう。
(第1部終了)
第2部
(音楽:「兵士の行進曲」)
すべてを失った兵士はただただ田舎道をさまよい歩いていると、ある村に流れついた。そこには大きな看板があって、王さまからの言葉が書かれていた、「眠ったままになっている王女の病気をなおしたものに、王女をめあわせるものなり」と。
兵士は王女の病気をなおすべく城に入って行くとまたも悪魔に出会う。悪魔も王女の病気をなおすために村に来ていたのだ。一計を案じた兵士は悪魔に大量の酒を飲ませて自分のヴァイオリンを取り戻した。そして兵士はヴァイオリンをひき始めた。
(音楽:「小さなコンサート」)
音楽が終わるとそこは王女の部屋。王女はベッドに寝たきりで全く動かない。兵士はヴァイオリンをひき始める。
(音楽:「タンゴ•ワルツ•ラグタイム」)
王女は目をあけて兵士の方を向き、ベッドの上に起きる。その後ワルツに合わせて王女はおどり始める。音楽がおわると兵士と王女はしっかりと抱き合っている。
そこに悪魔が現れる。しかし、力はない。兵士はヴァイオリンを取り出し、悪魔を踊り死なせようとする。
(音楽:「悪魔の踊り」)
音楽のあいだ悪魔は身をよじらせて苦しむ。両手で必死に身体を、足をおさえようとするが、踊りは止められない。とうとう疲れ果てて悪魔は倒れて音楽は終了する。
兵士と王女はしっかりと抱き合っていたが、悪魔にもう一つ呪いをかけられていた。悪魔が力を持っていないのはこの王国の中だけ。ひとたびこの国を出るならまた悪魔の言いなりになってしまう。
語り手が兵士に忠告する。「いまの幸福に、むかしの幸福を加えようとしてはいけない。幸福は1つで充分。2つとなったら幸福などなくなったのと同じこと」
兵士の過去のことを知りたいという王女の求めに応じて、兵士は忠告を聞かずに自分の故郷に王女を連れて行こうとする。「すぐに帰ってくるから誰にも気づかれないさ。」
国境にさしかかると王女が消えてかわりに悪魔が現れた。兵士のヴァイオリンを取りあげ演奏し始めた。兵士に力はない。うなだれて悪魔のあとをついて行くだけだった。
(「兵士の物語」第2部終了)
とき:2011年1月14日(金)午後7時開演
ところ:箱崎水族館喫茶室(tel: 092-986-4134)
演奏:福岡カンマーフィルハーモニー
私の読書遍歴2
私は本が好き。私にとって「本」とは小説などの活字のものだけではなく、画集や楽譜も含まれます。私にとって音楽は「聴く」ものだけでなく「読む」ものでもあります。外国語の文法を学ぶとその言葉で書かれた本が読めるようになるのと同様に、楽譜も読み方を学ぶと非常に多くのことが分かる、つまり聞こえるようになります。画集。絵の勉強は残念ながら一度もしたことはないので、完全に素人として画集を見ます。このように私はたくさんの「本」にかこまれて生活しています。
この生活は私が幼稚園に入るくらいからすでに始まっています。私は「本屋の息子」なのです。実家が本屋の経営をしていたので、物心ついたときから本にかこまれていたのです。私の原風景の一つに巨大な本棚を見上げるというのがあるのですが、これは間違いなく私の幼少期の経験から来ていると思います。当時の私は幼稚園にちゃんと行かずに本屋のレジのところで祖母と一緒に本を読んでいました。レジは祖母の係だったので私は好んでそばで本を読んで分からないところを聞いていました。
当時は店にあったものを片っ端から読んでいました。子供用に書かれた偉人の伝記をたくさん読んで、世の中には偉い人がたくさんいるんだなと思っていました。このころ好きになった人の中には今でも興味を持ち続けている人がいます。たとえばモーツァルトやベートーヴェンです。少し年齢が上がると様々な小説やエッセイを読むようになりました。このころ気づいたのは、小説の中には幼少期に読んだ偉人のように何もかもが完璧ではない人物が頻繁に登場することでした。また、人生が上手くいかずに絶望の淵に落ちていくような悲しい小説にも出会いました。たとえば、ゲーテの「若きウェルテルの悩み」、中上健次の「十九歳の地図」、原口統三の「二十歳のエチュード」などです。
私が中高生の時に、学校に講演で来てくださるのは、立派な経歴を持ち、成功した人たちでした。自分はいつかこんな風になれるのだろうか。なれなかったらどうなるんだろうと思っていました。学校の先生は「がんばれ」としかおっしゃいませんでしたので、私が知りたいことは何も分かりませんでした。私はあの時、もっと「平凡な」(何をもって平凡というか、この定義はかなり難しいと思うが)、あるいは人生で失敗してしまった人の話も聞いてみたかったなと今では思います。
私は大学入試に失敗してかなり不安な日々を過ごしました。その時に気づいたのは小説に書かれている人物たちの生き様、また様々なエッセイに私の悩みに対するヒントがたくさんあるということでした。世の中には自分と同じようなことを考え、悩む人が大勢いるというのが分かるだけでも救いになりました。エッセイでもそうです。つい最近シンガポールへ修学旅行に行く飛行機の搭乗口でもらった新聞に、ヴァイオリニスト諏訪内晶子さんのエッセイがありました。天才として幼少期を過ごした彼女が二十代、三十代になって壁にぶつかり、「世の中には思うようにいかないことがあることを知り、それを受け入れる」ようになって芸術に向かう姿勢が変わったと書かれていました。ベートーヴェンだってそう。子供の時に読んだ伝記はかなり美化されていて、学校では「楽聖」などと教えられていますが、実際の彼はもっと人間臭い、本当に普通の生活を営み、私たちと同じような悩みに満ちていました。もちろん彼の作品が永遠の価値を持つことに疑いの余地はありませんが。このことを知ったのも読書のおかげです。興味があったらセイヤーの書いた「ベートーヴェンの生涯」を読んでみてください。
若い皆さんは悩むことがたくさんあると思います。ゲーテが皆さんのような若い時代を「疾風怒濤(Sturm und Drang あるいはStorm and Stress)」の時代と言っています。その時代を乗り越えるときに、様々な時代、国の人々が書いた書物があなた方にヒントを与えてくれます。彼らは皆さんと同じように悩み、それと向き合ってきたことを言葉にしてくれているのです。今、私はたまたま学校からの依頼で文学のことを中心に述べていますが、これは美術、音楽、演劇、など他の全ての表現形式に当てはまります。私も老人になって初めてこのようなことが分かるようになりました。学校のテストのために本を読むというよりは生きるために本を読む、そんなことがあってよいかもしれません。
2019年12月8日箱崎の喫茶店にて
Foreign Language Learning in Japan
Yukinori Tanamachi
As an English teacher, I have been thinking about why the Japanese learn English. Geographically, Japan is small, isolated country where there are few opportunities to encounter foreigners. Recently, more and more immigrants, students, workers, and so on have come to Japan, so there seem to be more opportunities to meet and talk with foreigners in Japan. Compared with America, however, it cannot be said that the Japanese have more needs to use a foreign language. Take a look at Spanish in the U.S. Needless to say, Spanish is a dominant foreign language in the U.S. In high schools, universities, and any language institutes, Spanish is the must for American students. There are so many Spanish-speaking Americans that more than 15% of the U.S. citizens cannot speak English well. Thus, there are many opportunities to use Spanish in the U.S. In fact, I have met many people speaking Spanish in the U.S. Thus, it can be said that studying Spanish definitely has a practical reason.
In Japan, however, almost all of the people speak Japanese and almost only one race exists. Therefore, they have less opportunity to use and study a foreign language, especially English than any other multicultural nation such as America. So, why do the Japanese learn English? I would like to discuss brief history of foreign language learning in Japan, resulting in shedding light on the reason why the Japanese learn foreign languages.
Historically, the Japanese have been learning foreign languages as a source for new information. Perhaps the first foreign language the Japanese studied was the Chinese language called Kanbun. Kanbun was imported from China around 3rd century in order to record the government documents or read books written in Chinese. At that time, the Japanese learned Kanbun as a foreign language. It should be noted here that Kanbun was learned not for communicating with the Chinese people but for writing and reading. At first, the Japanese pronounced Kanbun in an original Chinese way. As the time passed, however, they changed the way of reading aloud Kanbun into that of similar to the Japanese language. Also, the Japanese modified Chinese characters into Hiragana and Katakana in order to enrich the Japanese language. Not only the pronunciation but also the way of reading was changed. The Japanese invented special symbols called Kaeriten in order to read Kanbun easily. Following is an example of Kanbun with Kaeriten.
Small characters such as 上、下、and レ are Kaeriten. These characters are not be pronounced, but indicate how readers read the sentence: which is the subject, object and verb and in which way readers to read. Kaeriten was designed not to communicate, but to read and write effectively for the Japanese people. Kaeriten was only understood by the Japanese, so the Chinese people could not utilize these symbols. Also, by using Kaeriten, the Japanese were able to read aloud Kanbun easily. However, the ancient Japanese language was used in pronouncing Kanbun, so the Chinese people did not seem to understand their pronunciation any longer.
This traditional way of learning Kanbun was transferred to the other foreign languages. The Japanese people shifted their foreign language learning from Chinese to western languages since 16th century. The Japanese first contact to a western language was Portuguese. In 1543, the Japanese started to import guns from Portugal. Then Dutch was learned in the Edo era. It was recorded that in 1740’s Shogun (General) Yoshimune ordered Japanese scholars to learn Dutch. Different from Chinese or Portuguese, the Japanese people learned Dutch in two different ways: practical reason for communicating businessmen in Dejima, Nagasaki and academic reason such as translating medical books. More and more people were eager to learn Dutch, resulted in establishing several Language institutes. One of the most famous institutes was Tekijyuku established by OGATA Kohan in 1838. Tekijyuku was located in Osaka where a lot of foreign books were available. Students studied in a large classroom and had to take 6 exams a month. Before exams students fought to use only one Dutch dictionary in the classroom. The most famous alumni from Tekijyuku was FUKUZAWA Yukichi, who established Keio University in 1868. The purpose of learning Dutch in Tekijyuku was quite clear: learning to read books written in Dutch fluently. In particular, students paid special attention to read medical books in order to exterminate smallpox. At that time, this kind of western study was called Rangaku. This learning style was passed on to learning English.
In the late 18th century, the Japanese started to learn other foreign languages such as German, French, and English. In 1858, the Edo government established a language institute where Dutch was the prime foreign language and English was secondary. The learning style in this institute was deeply influenced by Rangaku where translation was primarily focused on and pronunciation and communication was thought little of.
In the Meiji period, native speakers of English came to Japan and started teach practical English. At that time there were two kinds of teachers: one was Japanese teachers called Hensoku, or unauthentic, teaching only translation; and the other was native teachers called Seisokju, or authentic, teaching practical English. They had an opposite purpose and confronted with each other. For students, however, these two kinds of teachers compensated for each other and they could learn different aspects of foreign languages. For instance, MURAI Tomoyoshi, a politician in the Meiji period, wrote his retrospect of learning English saying that he first studied Hensoku English (translation) from Japanese teachers and then learned Seisoku English from missionary priests. Then, he studied abroad in order to master English.
So far, we have seen the brief history of foreign language learning in Japan through which it is possible for us to draw a common learning style. In general, the Japanese people have been learning a foreign language as a source and little attention has been paid to a practical side.
2009
2008
2007
Acquisition of Relative Adverbs and Relative Clause Research (2007)
My Reading History (Japanese)
2005
Web Origami Workshop (R541) (2005)
Web English Course (Relative Clauses) (2005)
2004
Foreign Language Learning in Japan (2004)
2002 - 2004 at Indiana University
Foreign Language Learning in Japan